ベーブ・ルースは永遠の赤ん坊

ベーブ・ルースは1934年11月、読売新聞社の要請によりアメリカ選抜野球軍の主将として来日しました。アメリカ軍は東京、大阪、函館、仙台、静岡など合計18回のゲームを行い全て勝利します。
ベーブ・ルースもこの間にホームランを13本を打ち、さすがはホームラン王だと日本のファンを感心させさらに魅了しました。
この年の12月日本で初めてプロ野球の読売巨人軍が誕生します。

日本から戻ったベーブ・ルースはボストン・ブレーブスで1935年の開幕第1戦でホームランを打ち強豪ジャイアンツに勝利します。
さらにピッツバーグでパイレーツとの試合では1ゲーム3本のホームランを打つ活躍を見せます。

しかし、ベーブ・ルースは体力の限界から1935年5月30日のフィリーズ戦を最後に野球界を引退します。
ベーブ・ルース40歳、初めてメジャー・リーグに入ってから22年が経っていました。

1946年、ベーブ・ルースが51歳のとき頭の中に腫瘍ができる重い病気に罹りました。
ベーブ・ルースが入院するとアメリカをはじめ世界中から3万通ものお見舞いの手紙が届きます。そのほとんどが子どもたちからのものでした。
ベーブ・ルースがいかに子どもたち、少年少女たちから愛されていたかがわかります。

ベーブ・ルースは奇跡的に回復し、退院後フォード自動車会社からの依頼で全アメリカ少年野球協会のコーチになりアメリカ中をまわってたくさんの少年たちに正しい野球を教えてまわりました。
ベーブ・ルースは「100万人の少年にボールを持たせたい。」と最後の願いを持ち、アメリカ中の貧しい少年たちに野球を教えようと多くの私財を投入します。

アメリカ野球界ではこうしたベーブ・ルースの長きにわたり野球のために働いた功績を称え、毎年4月27日を「ベーブ・ルースの日」に定めました。
1947年4月27日にヤンキー・スタジアムで行われた第1回の「ベーブ・ルースの日」には6万人のファンが集まりました。

1948年7月喉頭がんでメモリアル病院に入院したベーブ・ルースは、8月16日ベーブ・ルースの妻クレア、ベーブ・ルースの妹マミー、そしてベーブ・ルースの2人の娘に看取られ静かに息をひきとりました。
ベーブ・ルース、53歳の年です。
ベーブ・ルースに最後の別れを告げようとする人々は2日間で15万人にもなりました。そのうち半数が少年少女の子どもたちでした。

ベーブ・ルースは生きている間に多くの試合に勝った。しかしベーブ・ルースの一番大きな勝利は自分自身に勝ったことである。ボルモチアの不良少年から見事に立ち直ったベーブ・ルースはやればできると言うことを世界中の少年たちに示しました。これこそがベーブ・ルースの大きな勝利です。」
フランシス・スペルマン大司教のこのことばがベーブ・ルースの人生の全てを語っています。


ベーブ・ルースは無邪気で純真で誰からも愛され、失敗してもくじけず何度でも立ち上がる永遠の赤ん坊でした。


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